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今昔このから物語集 巻第一

今は昔と説話、語りはじむるは、はるか昔のこと。
今からすればそんなに昔のことでもないといひて、語り始める。
話の種は尽きざるが、三十一巻千五十九話には遠く及ばざる。
一話一話、語るに尽きざるものを。
からすれば、そんなにのことじゃぁ無い。
何せ
この書付け、蔵にも入っておらぬものじゃから
ゆるりと写して、のちに伝えんとす。

 

関東 山歩き 案内

 

巻 第一 岩城の国西郷の山に早乙女捨てられたる
(こと)第十五

 は早乙女でも、は年寄りが捨てられたという。山の中は季節を問わず恐ろしいものじゃ。
この話は学び舎のおのこめのこ若人200余人が、師匠たち10余人と山に入ってのことでは
情け無い人たちばかりじゃのぅ。大勢集いて山を登るのは先達の力次第じゃ
からのぅ。

 乙未の年(2015年)皐月の末、下総の国の北の外れ今は水戸の御支配下のまちに、ゆうきあ
り。まちにて仕切る学び舎ありて、ここのおのこめのこ、泊まりの試しとして210人を陸奥岩城
へ送り出さん。西郷のむら、甲子(かっし)の湯どころに近く、国の見たる若人のしぜんの家ぞあ
りける。先達師匠は11人。二日目は程よい場所の赤面山を目指す。高さは5600尺(1701
米)宿の家はおよそ2800尺(850米)長さは1里と3町ほど(約4.3阡米)。辰の時より
4半とき(8時半)に出立。いただきにて昼餉を済ませ、申の僅か前(15時45分)宿に戻る。
この時、一人の早乙女の戻らぬことについて若者より申し出があったことは、読売あらたききかみ
29日の夕げの刷りが伝えている。福島民のしらせは29日の朝げの刷りで伝えている。茨城あら
たききかみは30日の朝げに伝えている。夕げを済ませた晩げ戌の時近くになって度々の若人の言
うに(7時45分頃)白河のお上に伝える。白河の番所はしぜんの家より4里半(17.5阡米)
も隔てつもの。伝えを聞ききたる番所より30人の詰め番の役人を引き連れて駆けつけん。山道を
辿りて宿からおよそ10町足らず(約1阡米)のところに捻挫が為、うずくまれる乙女をみつける。
亥のとき(9時5分)のことだという。
 宿にみなの者が着いたときに、行方の知れない者がいると申しでがあったのに、これを捨て置く
とは何たることか。元服前後の齢のめのこを一人山中に置くとは物の怖さをしらざりしほうげもの
の仕業よ。
 多勢にて山に入るにつき、仲間若人の行方を確かめざるほうけもののあることの危うきを、改め
伝えん
と、ここに綴りて、のちに伝えんとす。end

 福島民報29日朝刊、読売新聞29日夕刊、茨城新聞30日朝刊。茨城県結城市立結城中学学校
二年生。白河署。

巻 第一 蝦夷地の悲劇を待たず山旅の危うきをさける
(こと)第十四

 更ながら山旅巡るに、無事帰ることはより一位の大事というとにかわりないことじゃ
、あない書などよくよみて備えを万全にしたいものじゃ。

 己丑の年(2009年)、文月の半ば、夏至を送って一つ月あまり、梅雨ぞ明けたるか否やと世
間に問う声のここかしこに聞こゆる日々のこと。日の本の国、北のはて蝦夷の地より風雨に負けて
難に殉じたる人有りと聞こゆる。江戸の店が諸国に声を掛けて客を募り、蝦夷地の山丘を巡らんと
せしものなり。まろうどを十五人に、あない人をみったりつけて山中を導くといふ。七千尺の山並
みを歩くにつけ、夏はよき季節なり。されど風雨強いがため、よったりあやふし、いや九人倒れし
や。聞き至れば一人にて来し者を含めて十人もの人の倒れしとか。あな、いたわし。
 北の大地、蝦夷の地は同じ日の本にあっても寒冷なること、信州駿州の一万尺の地と蝦夷の七千
尺が同じといいける。夏の好天時の昼日中にても涼し、その夜間は京江戸の冬場と同じほどに寒冷
なり。増して風吹けば更なり。雨にうたれ、衣服を濡らせば更に寒冷を重ねる。蝦夷地の高山、い
ただき近ければ樹木無く、風あめ避くるにものなし。いたずらに衣服を濡らし、からだの温もりを
失い、果てはみたまもうしないぬ。
 寒冷風雨に備えたる衣服に不足ありや。山中の宿泊を謀れども連日の歩みは長き時を重ね、衆人
の疲れはいかほどや。風雨、日を連ぬるとあらば、からだやすめの日をこれに充て、衣服の乾きを
も計るのがよき考えなり。ましてあない人みったりもいてもこれをはからざりしか。
 悲しきことの起きたるのちに、これを論じるはやすし。これをあすの吾らの行いの鑑にすべく朋
輩ともども論ずるは賢きなり。されど、憂いのことの起きたるを待たず、山丘巡る旅の危うしこと
をさくる論議はすでに書になりてその数甚だ多し。書の庫、店にさえ多し。写し絵の美しき読み本
にて山旅を計るも、あやうしを避ける論の書にも目を通し必ずやこれに従いて、ことなく住みやに
戻るを良しとしたい。

 みなの衆にあらため伝えんと、ここに綴りて、のちに伝えんとす。end

巻 第一 よき山のこと、三国のあない書にもうたわれる
(こと)第十三

に思うによきものは、創建されしより、幾百年を経るともよきことの変ることなし。東西の隔
たりなく、いと高く評価されり。これ然りとぞおもふ。
この霊山に大洞を穿って速かけみちを普請
とするも、緑の山損なうことの少なし技をもちいると聞く。遊山によき山と広く知れ渡れば、世間の
目は辛きこと更なるものじゃ
から

 武蔵の国江戸より甲州街道を西へ進みて、小仏の関の近くに大伽藍あり。その名を薬王院といえ
り。いずなごんけん堂をはじめ各所に天狗像を置き、千年余のながきにわたり修験の行者これを護
れり。内藤新宿より長蛇の連れ車を乗り合いて、参詣遊山に多聚の訪れること、晴雨寒暑を問わ
ず。食道楽のあない書たる味酒覧なる書き物は物見遊山どころの吟味にも口を出し、これを三星の
良と評したり。これをあゆめば、径の改め、休みどころの置きところ、厠の清らか。正に洋の東西を
おしても、これより勝るもの少なし。干支半廻りも前に見知るころより、更に整えは充ちたり。
 速かけみちを普請せんとして、この山の中ほどに大洞を穿たんとするはかりごと有り。これに異
を唱え筵幡立てる者有れども、今様の技はこの霊山を損なうこと極めて少なし。大枚を投じてこれ
を推し進め、広く関東の荷駄の動きをよきせしめん。筵幡うちふるは、いたずらに大平の世に渦を
生むものであろう。
 世に悪しきものよきもの、並び立つこと間近に見らるるは面白。
ここに綴りて、のちに伝えんと
す。end

巻 第一 価値あるものの値、かち無き物のねの
(こと)第十二

に思うに尊きものは、造り出されしより、幾百年を経るとも尊きことの変ることなし。東西
の隔たりなく、いと高く評価されり。これ然りとぞおもふ。されど、
この怪しきよみほん、作り
出されし端、半歳も経ずして、たなの値さえ斬られ削られるのじゃ
から

 ふるきみ仏、てらすたればいつしかその寺を追われ、商人の手に渡らん。うわさは走りて名工の
手になる大日と明かされれば、大枚の値をつけ、これを求めるひとのあまたあり。御像は美術工
芸にいかにや優れるといえども、信仰のもの。価値有るといえども、邪教の徒が美術工芸のもの
として、いかに高く持ち上げようとも、しかるべきかちをそこない、おとしめるもの。堂に納
め、篤信の人の前にあってこそ、尊し。真言の新派がこれを幾十百千萬両にて求むは当然なり。
西の国、毛唐洋の向こうにわたらざりしこと、喜びおおき。いずれのひか、上野の森にてお会いせ
ん。
 上総安房の国々に新しき山間の道をあないするよみほんの出だされし、ひのとのい、霜月。明
けて、つちえのね、水無月。わずか半歳もたたざりしとき、これを求めて定めの値より、いち割
もにわりも削って求めるやからありと聞く。価値無きものたれば値を斬り、値を捨てるもよし。
価値無きものたれば求めざることなきがよし。刷りところ、商いのたなを廻れば定めの値にてい
つなんときも、いくつでも求められようが。これを避けるは、このあない書き、かち無き半端な
る物とこそふみしものや。
 よに、物の価値を見てまさしく判ずるひとの、高く値をつけるとも、かち無きものたれば値を
斬り削ることなどせず、もとめざるがよきこと、
ここに綴りて、のちに伝えんとす。end

巻 第一 由緒ある神社の名前の怪しき
(こと)第十一

からすればいたしかたない。そのこの前をつけたことに無理はなかったのじゃから

 安房の国かも川のおお市の東村に、いにしえより神社有り。その裏山を金毘羅山といふらし
く、近年に遊山のあない書、かずかず出されリ。下総流山のたなより出されたる書は上総大原の
人ぞ書けり。これをモウキ神社という。ヤソ邪教の会堂ならばいざ知らず、カタカナかきとはい
とあやし。さらにはその読みさえも過てリ。くはえて、おもふに、この書き物の中には怪しき箇
所、甚だ多し。山の手前にてこれをあないせず、手前の家並み川原にて遊ぶがよいとしたり、寺
子屋の跡をほめるはいいが、その周囲をめぐる遊山のみちの一つもをもあないせず。その粗を記
せば気色あし。限りなしとはいえずとも。増間の馬鹿話とは、そのわけをことにす。
 その下総のたなより出されたる「同じ名の山を考える書」は下総稲毛の人ぞ書けり。文字も読
みも正し。江戸、大門のおおたな、日の本諸国別山あないかき、今は廃版になりしが、四拾六巻
組みの第十一にてかたりし上総安房の山のあない書はやはり正し。
 乙酉十七年、先の下総のたなより長月に出せリ書は下総谷津の人、あらためリ。この神社の名
前、正しき文字を書きけるが、よみ仮名のなきはなぜなるか。同じ人、年を改め丙戌十八年弥
生、江戸は滝野川のたなより出せる書、これに痔の文字を当てリ。いたし、かゆし、かなし。さ
れど、よみは正しくふれリ。
 この文字、からくりを用いても、書き出せず、ここに現わせざりしは悲し。痔の文字より、二
水をとられたし。广の文字はもちいること稀なリ。ましてこれに寺の字を重ねる文字とは。伊
勢神宮の御厨たればの名、なり。されど、この名も、もうけの宮と呼ぶにもその言葉、文字も今
用いること稀になれば「もうけ」と読むも難し。名を選びてつけるにも、その言葉歳月を経て廃
れようとは、思いもつかざろうよ。名をつけることの難しきこと、ここに綴りて、のちに伝えん
とす。
 嗚呼、恥ずかし、写し違いあり。「江戸、大門」と読めし文字の、なんと「江戸、赤坂」の
判じ違えとは。end

 もうけ神社=痔−冫=广+寺  IMEでは表示される。

巻 第一 美味き水に人の安らぐ
(こと)第十

も、もかわらぬものじゃ。何せこの水に、人の安らぐことにかわりはないのじゃから

 武蔵の国、秩父の里にりょうかみという山あり。広き盆地の西の端に岩を重ねる尾根を見せた
り。その山、日の本の国に百の名山ありとうたわれし中に数えられれば、諸国より足を運ぶもの多
し。東西、南北より、頂を目指す径あり。遠き径、近き径。易き径、難き径。その内に、東より頂
を目指して進むる日向大谷からの径は、やや遠かれども、易き径なれは人気(ひとけ)多し。登
り口に、乗り合いもあれば、厠もあり。春にはニリンソウの咲きて、山肌が斜面を白く染めん。
ヤシオツツジは桃色を見せて、重ねて目を奪う。
 去れど如何に楽しきみちなれども、径を進めば飢え渇きの覚えること、たちどころなり。薄川
の岩沢を二度三度渡り返して、水音絶えたるのち、弘法の井戸と名付けたる湧き水の、径が脇に
あり。四分(13ミリ)程の筒(ビニルパイプ)先から湧きいずる水は誠に甘く喉を潤す。ここ
を往く人は、皆立ち止まりて、これを賞味せし。また段取りよきものは、火をおこし、この水を
煮立てて茶を点てる。芳しく香るに集いて、安らぐ人の多し。かようなる山中に、美味き水のあ
ること。ここに綴りて、のちに伝えんとす。end

巻 第一 怪しきあない図の語(こと)第九

からすればもうのことじゃ。何せこのあない図、いずこの店も商うておらぬのじゃから

 下総の国佐倉に住みたもうし伊能という人、江戸に移りて天文・測量を修めん。日の本の国の波
の浜を踏み、磯の岩を攀じりて地図を作る。あまりの精巧さ、後世においても、これを褒め称える
人の数、限りなし。 山歩かんとすれば地図必ずや手元に欲し。院のほかに二つたなあり。その一
つは今もよき地図を目指して奮闘せり。又、別のひとつはその姿みず、いずこに消え去りしか。西
神田にその形なし。その今はあらざるたなの売り出せるあない図には巻の十二に三浦半島鎌倉あり、
巻の二十一に房総半島あり。六十巻の中では珍しき場所なり。いずこの店も商うてはおらぬが持ち
人を探しさがして、ようやく巻の二十一のみぞ、遂ひに拝覧をかなへたり。
 このあない図はその縮尺を十万分の壱として広く地域を含めたり。辛丑の年に初のものを刷り、
辛未の年にはなんと四拾版という。九ヶ月に一回の割りでの重版じゃ。さぞかしよきものかと一度
は思う。全体薄き緑に彩られ、赤字にて物見遊山の名所を記す。されど、山歩き用の地図のはず。
赤き線の一つ一つを見るには甚だ怪しき。
 西より見れば、鋸山に南北三本道あり、大きく広げし図あれば、内一本怪し。富山は合戸より観
音峰に至りて金比羅峰へ。井野から観音峰へ。冨浦より大房岬を巡る。洲崎を一廻り。野島崎を往
復。鹿野山神野寺付近は大きく広げし図あれども赤線なし。高宕山怒田沢から二本、環を作る。奥
畑から一本これに付く。されど黒い二本線は車の通る広き道の筈、狭き人の径なりしが、過ちあ
り。野営場森林館の径。松丘から大岩までの国つ道まで赤線は何ゆえか。太海、仁右衛門島にも赤
線あり。亀山、三石山、清澄寺のみちはよし。しかれども、朝生原、葛原、粟又から麻綿原に掛け
てのみぞ、やけにつばらに印せるはなにゆえか。
 果てもあやし。よき山の数々を訪ぬる道を標すに少なく、朝生原、麻綿原に限りてのみ、山歩き
たる道標すに多き。吊り合いあしきこと、はなはだし。いかなる故なるか推して知るに、そのすべ
なし。
ここに綴りて、のちに伝えんとす。end

巻 第一 怪しきあないかきの
(こと)第八

からすればもうのことじゃ。何せこのあないかき、いずこの店も商うておらぬのじゃから

 江戸、芝大門に三国の深山幽谷をあないするかきつけを刷りだすおおたなあり。日の本の百余の
諸国は蝦夷地を含め、琉球を除きたる四拾六巻にて書物を出せり。関東は常陸、下野、上野、武
蔵、武蔵の多摩川べり、相模。下総はなく、安房と上総は合本されて第十一巻じゃ。安房と上総
の国境を主にして。絵解き、写しえも多く、目にも楽しき読み本なり。
 初版から十年ほどのこと、癸未十五年霜月の月末のことじゃ。この地はあたたこうて、紅葉かり
に行かんとすれど、この日まだ、早いかもしれぬほどの陽気じゃった。石尊なる山を巡りて南に延
びる尾根筋を歩けば、千尺余の高さの山並みなれど、木々は太くその背は高く、誠、山高きをもっ
て、、、という先人のことのは、おもいいだされる。参拾人の大組の後に付き、みち譲られてこれ
を越すは八つのころ。きよすみの寺の近きところより海におつる日を眺むるに、暮れ六つにはまだ
一っときも早い。秋の陽のおつるのは、はやきもの。吊瓶おとしとはこのことか。天津の郷に着く
ころは、夜中と同じほどに、あたりは暗くご酒をいただくには、よき宵よ。
 明くる昼の転令飛写を見やれば、先をあるき、後を歩きし参拾人は彼の森にて御こもりなさっと
か。みちを違えたとはいえ、続いているところ、一人はしい進み。かのひとら、江戸の王子村か滝
野川にあるおおたなの募りし面々なりという。 さて明くる甲申十六年正月半ばに芝大門のおおた
なの読み本は、如月の号として「難を避けるの術」の話をまとめて、出せり。この中に石尊山より
麻綿原の径を歩きて、あらたむる項あり。これは、同じみちを編輯子が幾人か、今様のからくりも
のを用いて辿った書き物で、やじきた道中よろしく、みち迷いを繰り返しながら、かろうじてもと
の計りとおりにすすむ。紙面六枚をつかいて、つばらに述べたもう。まこと、このみちは迷いやす
しとうたいて、迷いの種処を甲、乙、丙と三つも上げる。去れどこのみちを、あないせんとするか
きものは、彼の店の出せる四拾六巻の第十一巻によるほかはなし。
 この歳の弥生半ばに新たなる日の本諸国別山あないかきがその芝大門のおおたなより、いだされ
ん。今度は琉球国を含めて、全巻四拾七巻となる大書じゃ。第十一巻は同じく安房と上総のあない
じゃ。新たなる書き物紐解けば、石尊麻綿原参拾人御難儀のみちは、書かれておらぬ。替えて別の
径ばかり。はて、面妖な。簡略にして、迷い人呼びやすき径の怪しきあないかきは、板を改めて、
これを削るかや。此処に限らず、絵解き、写し絵、目に楽しくは有るけれども、迷いの種処指し示
す、確かなるあないすることは、半ば。まこと怪しきあないかきよ。
 新らたなる四拾七巻の十一巻を見やれば、音便のふり違えはご愛嬌なりしが、又、迷い人を生む
種を撒かん。 其のひとつ 一節 観音橋の案内地図はこの橋を渡るが如く赤線を引いておるが、
あないかきには、これを横目で見るようにかかれておる。はて、地図の方が違うわい。
 其のふたつ 七節 神納橋と文字を入れ、じんのうとよみを書いておる。かんのうとしたいもの
よのう。
 其のみっつ 八節 案内地図では青山旅館前の位置が大きく北にずれておる。図示より三町ほど
も南じゃ。
 其のよつ 十二節 いしくれ道など、ないわい。瀝青にて奇麗に清められておるぞ。七とせも八
とせも昔のことじゃない。
 其のいつつ 二八節 波羅法螺など、どこにあるというんじゃい。
 其のむつ 三十節 蜜柑や水仙の畑はある。しかしのう、民家の前を通らんでも、瀝青の道に出
られるわい。僅かなところで径を違えて、そのまま径をあないすれば、その家の犬に吠えられよう
ものぞ。
 其のななつ 三十三節 山頂の石碑は確かに三柱ある。しかし未だ消えずに、深く刻まれてお
る。読み違えではなく出鱈目をかいてはいかん。日の本の神々は寛大なれども、毛唐の邪神どもた
れば打たれるぞぃ。
 其のやつ 三十七節 大畑の乗合い車の乗り場の場所が、二町も三町も東にずれた地図をかいて
おる。湯ノ沢口には乗合い車の乗り場はないわい。寺子屋に通いたるわらしべの乗合い車の乗り場
を書いてどうするのじゃ。
 各節ごとじゃないのじゃからにぃ、よき出来映えよ、このあないかきは。ここに綴りて、のちに
伝えんとす。
 嗚呼、恥ずかし、写し違いあり。「江戸、芝大門」と読めた文字の、なんと「江戸、赤坂」の判
じ違えとは。さらには、「九段北」とはいずちかや。
 ★はて、手元違いか、書付けもどさんとして手より落ちたる切れ端あり、見れば、其のここのつ
と読めり。写し違いに重ねて、見落としか。粗忽も極めり、ここのつをここにまた写さん。
 其のここのつ 四十六節 権現森の西寄りのみちがかなり西にずれた地図をかいておる。たけが
みね神社より西に進みたおねみちは右へ曲がりてたに筋をはう。左に折れてのぼりし処は瀝青仕立
てのみちがまがるところよ。まっすぐのみち向かい丁の字の如くとりつくのではないわい。end
  →関東 山歩き 案内→房総丘陵→重箱の隅(あえハイパーリンクさせていませんが、そちら
も見てください) 

巻 第一 甲斐の国八ヶ岳にてなまづを調べる
(こと)第七

にすればのことじゃ無い。何せこの話、きょうあすきのうおとといのことじゃから

 相模のうみになまづ暴れて、武蔵・相模・甲斐・伊豆に死せるもの、およそ十万とも十四万とも、のち
に伝う。これよりのちは長月はじめを災い防ぎの日として、江戸はじめ関の東にて備えること久し。
 甲斐の国八ヶ岳のふもと大泉の里に星を眺めるを楽しみにして、天文の館を建てるものあり。流れ
の星を観ればその名は、三国を越えて伝わる。星を見るうちに、なまづの前触れを知るところとなれ
ば、まことの理はあとにしても、世に伝う。癸未十五年長月十六・十七日、南関東にて七つ尾びれの
大なまづありという。狼少年か翁か。あと一両日を待って事実をみんや。備えは、憂いなきようにせ
ん。
 外れたりとも、ここ五行の一巡を待つ内の廿の日、昼餉の休みときに、なまづついに暴れたり。安
房の国、上総の国さかいの外海に。しかしなまづまだ五つ尾びれで小さければ、なおあやし。備えは
解かざるがよい。同じ日の夕刻には黄門殿のお膝元にて、又なまづ暴れたれば、これは三つ尾びれ。
やや小さけれども、これで一つながりのなまづは収まるかや。 世になまづの災い激しく、怖きもの
の第一に挙げたるは尋常なり。されど数多の学者、これを知らしめんと研鑚すれど、いまだ決め手な
し。江戸を離れたる八ヶ岳の麓にてこれを言わしめんとは何の技なるや、不思議なる術の話、これに
とどめてのちに伝えんとす。
 十日遅れて、蝦夷地にてなまづが暴れたが、これは江戸の周りのものではない。江戸に近きところ
では霜月辺りに、またなまづが暴れるというそうだ。ここに綴りて、のちに伝えんとす。end

巻 第一 下伊那まぼろしの小屋の
(こと)第六 

からすれば、そんなにのことじゃ無い。何せこの小屋をしるした絵図はいまもあるのじゃから

 しなのの国の下伊那の郡に、遠山川という川あり。この川、遠く山にその源を発す。その右岸の径を
進みて、右側に吊り橋を見送る。この山中に島と名付ける場所あり。たよりが島という。この地にい
つ頃か、小屋が立ったものの、わずかいつとせも経たずに姿を消した。遠く伝え聞くところ、屋宅建
てるを、禁じられたる場所に、おかみのゆるしをまたずに立てたとか。改めゆるしを求むるに、ねが
いかなわず、打ちこわしを命じられたものだという。またべつに聞く。僅か数年後に襲った嵐のため
に小屋が傷み、これを繕うこと賄えず、商いの再開をあきらめたとも。いずれにしてもこの小屋を記
した絵図の手元にあるは、今はめずらし。蔵に納めん。ここに綴りて、のちに伝えんとす。end

巻 第一 くもとりの避難小屋の
(こと)第五 

からすればもうのことになったのかなぁ。何せこの小屋は建て替えられたのだから

 江戸は東の都。三国に聞こえるどころか、百余の国に照らしても数少ない大きな街になれり。多摩
の郡部を合わせて仕切るようになってからのことじゃ。多摩の山々に冬なら雪が積もる。なんといた
まし、ここくもとりで難に殉じた者が出た。とのさまいたくご立腹。「わが町は七つ海の向うにも知
られる大きなる街。西のはてとはいえ、雪にてなくなるものがあろうとは何たることか、小屋の一つも
あればよかろうものが」 ご命令によりて殉難の地に小屋が建てられた。水場も無い尾根の吹きさら
し。北に四半時とかからぬ場所には商い小屋もある。ご命令は堅き意地かと陰口言うものあり。この
との善政失政伝え聞くところおおく、これは奇政なるか。
 みどりの色に染められた小屋は小さく暗けれど、雨風吹雪けものなど、身を護るによし。その後、
木の香かぐわし明るき大きなる小屋に建て替わる。。雲を手に取るほど高き山なれど南に東にみはら
しよければ口伝えよし、足をはこぶもの増えん。難をのがれんがための小屋も今はよし。同好のもの
にぞ。ここに綴りて、のちに伝えんとす。end

三島神社  小さき小屋 本堂を左手より裏手に

巻 第一 境内の厠の語(こと)第四 

 今から思えばからのことじゃったのかなぁ。何せこのことは、一寺一社にかぎらぬことじゃから

その一 上総の国、君津の町の浜遠く、宿原と名つく里あり。街道近く大きなる鳥居は、三島神社
ものなり。くぐりて進めば、やがて道は喬き木々にかこわれ、右手に分かれの道あれば、これに入ら
ん。囲む木々の背いと高く、旧くから人びと畏敬の念、深うあればこそ。進めばあらてめて大鳥居を
くぐる。ひらけし庭は向かいて石段在り。これを登りて至るは本殿。向かって右手に、
小さき小屋
り。遠目にもこれ厠たると、たちまちに判じる。小屋の造りはふるく今の世のものとは、断じがた
し。されど、清め洗いのほどまことにつくせしもの。汚濁のかけらもみつけえず。汚辱の輩、入るに
恥ずかし、手を合わせて踵を返さん。思うにいずれの祭神やも知らざるがまことの神ぞ祀りたればこ
そ、広く境内は休むに清く、集うに楽し。憩うにやすく。憚りさえも浄からん。

その二 武蔵の国、多摩川の左岸にこりなる山里あり。街道に沿いた山すそに家宅こやなどならぶ。
川井八雲神社はこのならびより石段を登る。神門もこの石段を登ればこの先もまだ石段が続く。拝殿
に向かひて右側、木立の中に薄暗き小屋あり。これ厠たると、たちまちに判じる。小屋の造りはふる
く今の世のものとは、断じがたし。されど、清め洗いのほどまことにつくせしもの。汚濁のかけらも
みつけえず。汚辱の輩、入るに恥ずかし、手を合わせて踵を返さん。思うにいずれの祭神やも知らざ
るがまことの神ぞ祀りたればこそ、広く境内は休むに清く、集うに楽し。憩うにやすく。憚りさえも
浄からん。
本堂を左手より裏手に

その三 尾張の国、一の宮の町に真清田の文字にてますみだとよばせる神社あり。社殿は大きく、境
内なお広し。その境内の南の端は市中に面し、囲いなし。参詣街びと、ひと通りはなはだ多し。境内
のまち道に近きところに、ふるくから厠あり。用多ければ、いたみもはげし。町の年貢から金子を用
立て、これを改め、参詣者に限らず、広く街びとの用に、供せんとはかる。普請、作事終わりてみなの
衆喜ばん時、これに異議を唱えるものあり。きけばやその宗徒。いう、年貢の金子を一教一派に用立
てるは、おきてやぶりなりと。まさに厳しく狭ければ、おきてに触れるかや。されど境内広くかこい
なく、みなの衆、宗派に拠らず憩えるに厠をも使わん。みなの衆が使える厠に限りて金子を使うは訳
あり。土地を賄いて、四平遠慮なく使える厠を造作するに、町の金子ではいたらざる。されど裁きに
町は敗れたり。石頭愚民の教。この厠広く諸人なんびとも遠慮なく使わんと供せしものを、やそ教の
ものどのは除くべしぞ。おもうにやそに限らず、世紀以来新参、新生の雑教邪教の数多けれど、その聖
域を広く四平四民の休めに放つところ、いまだ知らず。まして穢れ多き厠に限るなど猶のこと。真
教、邪教の節目ここにもありしか。われしらず。

その四 武蔵の国、多摩川の左岸にいくさばたなる山里あり。街道を北に進めば、平溝、白岩、成木
など里つづく。この里の西へ山道を始めは沢に沿い、中ごろより尾根に転じて、頂近くに至るところ
に小さき門あり。たかみずさん常福院というてらなり。右手に庫裏あれば、のどの渇き腹の足しにと
あきないてのぼりきたる人々を、休めん。氷菓子などさえも置くという。正面の
本堂を左手より裏手
廻りさらにたかみをめざせば、薄暗き木立の中に小屋あり。これ厠たると、たちまちに判じる。小
屋の造りはふるく今の世のものとは、断じがたし。されど、清め洗いのほどまことにつくせしもの。
汚濁のかけらもみつけえず。汚辱の輩、入るに恥ずかし、手を合わせて踵を返さん。思うにいずれの
本尊やも知らざるが、まことのみ仏ぞあがめたればこそ、広く境内は休むに清く、集うに楽し。憩う
にやすく。憚りさえも浄からん。連なるいただき賑わいて、幾多のあないしょ、此処を薦めん。

 人、集めんとするに、よき餌を配るも策なり。然れども、はばかりて、口に出しにくき所にきを配
りて、集いやすくするが、誠のじょう策というものよ、のう。ここに綴りて、のちに伝えんとす。end

巻 第一 植木の碑の語(こと)第三

しがたのことじゃ、のことじゃない。
何せ三つ辻には
この石碑がまだたっとるはずじゃから

 相模の国は山深くして、けもののかずのおおいのも、永く森の木々を大切にしてきたからじゃ。け
ものたちが多すぎて新たに木の苗を植えた時は、これをくわれんようにせんことなしには、木が育
たんところばかりじゃ。あおい息を吸おうと山に入ると、崩れてうもれて、ままならんところもある
わい。はだのとうげといふはずの山なかから急なみちを足をひきひき下ること、平らになりしとこ
ろにおりつく。見れば広い道が出来ておる。瀝青で固めて広いこと、四つ輪の車を二台並べて牽く
にも辺りをかまわぬほどじゃ。三又のつじなど、童を集めて鞠蹴る遊びもかまわぬほどにひろい。
その角には腰掛けなどあって休むにもちょうどよい。見れば大きなる石の碑がそばにある。大きく
掘り込まれた文字ははくがくせんさいもんもうとかわらぬわしにも読み取れた。
 りんだうかいつうきねんと読めばよいのじゃ。続く文字はしょくじゅじゃ。ということは林道を
造った記念に木を植えたってことか。なるほど、この林道つくるに山の中、何里もあったのじゃろ
うが、たくさんの木を切り倒してつくったんじゃろうのう、その記念に木を植えたのか。なるほどな
ぁ。木を切って林道を作り、記念の植樹か。なるほど、木を切って記念の植木か。はだのとうげか。
なにかちがうか?なぬかとうか。なにがいいたいか?うぅん?ばかげたはなしとおもわず。ここに
綴りて、のちに伝えんとす。end

巻 第一 おやひき姫のうみの語(こと)第二

からすればそんなにのことじゃない。
何せあの山奥には
このうみが今もあるのじゃから

 江戸づとめが永かった殿様が田舎に帰って藩主になった。参勤交代のない時代じゃから、国元で
政ごとに励んでいたはずじゃった。されど姫君が、国中から怪しき金品をかき集めておったのじゃ。
ひょんな事から、これが明らかになってしまった。殿様といえども、改め役人の手が届くじだいじゃ
ったがために、たちまち江戸から役人が押しかけた。車をつらねて、証左の書付け、符筆盤、算器を
運び去った。この殿様、おのれの娘なる姫を「たたきのめしてやりたい」と言ったあくる月には、こ
の姫に縄がうたれた。そして自ら御やくごめんをいいだした。
 この姫の周りには愚者が多いのか、ひろくまいないをかくして集め差し出すにまだたらず、国の山
奥に堰を建てて、うみを造れば、これに姫の名をかぶせた。にしちちぶももこといい、このみずうみ
はよしだの郷とおがのの郷に水を集めておる。この名前、各所に刻まれて永くながく残されよう。藩
主選びの札入れがため、又多くの年貢が使われる。いずれ御しらすでこのとのとこの姫の罪状つばら
に明らかになろうものぞ。市中引き回しもさらし首も今は遠絵伝え(転映飛写)、速刷瓦ですむもの
を、深き獄舎に打ち込むがよい。との喜寿の祝いも僅か二つ月めのことじゃった。親御の殿を藩主の
地位から引き摺り下ろしたおやひき姫のことじゃ。このとの、潔癖無比やとも、今田沼やとも、わか
らぬものになってしもうた。領民には膨大な借金が藩財政の破たんとして降りかかろうぞ、おそろし
きとのがおったもじゃ。ここに綴りて、のちに伝えんとす。end
(符筆盤floppy desk 算器computer)

巻 第一 暴れ竜の語(こと)第一

からすればそんなにのことじゃない。
何せ
この山々の御とめが解かれた後のことだから

 御とめの山といって、相模の国の西方に連なる山山には、なん人もはいっちゃぁなんねぇって、お
きてがあったんじゃ。それで、今でも山は高く谷は深く、草はふかく木々は高く。獣たちの極楽じゃ
ったんじゃが。まさか暴れ竜が今も住もうているとは誰も信じまい。
 武蔵の国のおおたなの若い衆が仲間をつのってのぅ。盆の休みの、真夏の暑い盛りじゃ。大勢して
河原に幕を張って水遊びをしておった。大雨が降るかもしれんから河原から上がるようにと、川役人
どもが諭してまわったのだが、おみきの入ったものもいて聞き入れん。仲間うちには、話を聞いて易
く道々まであがったものもいたということじゃったが。近くにじんどったよその組は河原から上がっ
たそうな。果たしてその夜、雨は降ることは降ったが、小ぶりですんだんじゃ。見回った川役人は、
みなの衆の無事を見て安堵したというんじゃが。
 しかし、それも束の間、夜が明けて日が上がるより、雨足が強うなった。いや、本当に雨が降った
のはそこより何里も北の川上じゃった。足元の水嵩がゆるりと上がっていく。その仲間達が幕張の宿
としたのは河の中洲じゃった。右岸はきつい山肌に深い流れが速い。左岸は石の並びに足をとられな
がらも、河原を歩き、登れば道にでる。その石の形はおろか、にごりの水にかげも見えず。道具を片
付けるひまもなく、水嵩が上がる。上手の堰を止めてくれといったところで、とてもかなわない。堰
は川の流れを止めるほど大きくはない。流れが緩やかでも川の流れはひざより上では歩けまい。早け
れば猶のこと。連れの幼子も、祝言間近の若衆も流されてしもうた。右岸の岩肌に逃れた親子の姿が
哀れ。転令飛写、速や刷り瓦で日ノ本あまねく伝えられもうした。なんといたましや。
 日変わりて下手の溜まりに舟を浮かべて探ること幾日か。みずくかばねを求めて幾千両もの大まい
を年貢から使こうたということじゃ。
 くろくらの谷には竜が住む。暴れ竜が住む。わしはそう信じておるんじゃ。河原で遊ばんとする時
はその大口に呑まれんように、逃げ場を考えて幕を張ることじゃ。川役人は土地の者じゃろうぞ。そ
の言うことには、すなおに従うことじゃ。 寄り合いのおきてより、じねんのおきては一倍以上にき
びしいものじゃなぁ。いのちはたいせつじゃが、はかないものよ。あやうきの避けよう、幾多もあろ
うが悲しき話。ここに綴りて、のちに伝えんとす。end 

関東 山歩き 案内